Sorry...Japanese Only.

ウンコ味のカレーとカレー味のウンコ

 人生を語れるほど生きてはいないが、私たちは高等な知能を持つヒトとして生活を営んでいると「選択」に迫られる事が人生の中で何度もある。
 いま、私たちが迫られている選択は「就職先」の選択であるし、日常の生活の中でも今日の昼食の献立の選択、着る服の選択、アクセサリー、髪型、行き先・・・。いったい一日に何度「選択」に迫られているのだろうか。

 先日リクルートから膨大な量の就職情報誌が届いた。まったく日本中にどれほど企業が存在するのか知らされた次第である。当然の事だが、私たちが就職する事が出来るのはその中で一社だけだ。あの中からその一社を選択する事は容易い事ではない。
 就職の専門家達は口を揃えて言う。

 「自己分析をしろ!自分を知らないで自分に合った企業を見つける事は出来ないぞ!企業研究をしろ!企業を知らないで企業を選択する事なんて出来ないぞ!」

 私に言わせれば、そんな事はあえて他人から言及されるべきことではない。「ジーパンの上からパンツを履くな」といわれているのと同じである。
 日常の中で自分の食事の献立や服や髪型を他人から「あーしろ」と言われて生きている野郎はどこにいようか?しかし上記の当然の事を言われているのは事実である。私たちは「自分を知らない」し、「相手の事も知らない」まま就職に挑むのである。

 そうは言っても、自分を知るとはどういう事か。エラそうな口を学生にばらまいている当事者達だって「自分」を知っているのか。自分が本当にやりたい事、自分が本当に好きな事、嫌いな事、それは環境に流されやすくて随時変化し、その本来の姿を見せる事はない。
 例えば現在大流行のプラダブランドだって、よ~く考えればナイロン生地が多くで、ン万も出して購入してもアジは出てこないで破ける一方だ。それでもみんなが持っていると本当に欲しいような気になって頭の中では「好き」になってしまう。もちろん本当にナイロンが好きな人の気持ちは尊重したい。

 私たちの生活の中には実に多くのメディアが混入し、人の好みも多様化、自由化してきている。生まれた頃からテレビというビジョンが存在する中で当たり前に生活してきた我々には「頭の中で想像し具象化する」機会が少なかった。自分の事まで人に指図されないと自分が見えてこないのは現代の風土病だ。

 いざ、「この中から選びなさい」と言われると、その数に圧倒され困惑し、ついつい選択を怠ってしまう。選べるものが有るとドウシテモその量に甘えてしまうから・・・。
 でも、みんなよく言うではないか。よく思い出して見て欲しい。自分が受験生だった頃、テスト前、レポートの締め切りの前。「本当は勉強なんてしたくないのに」なんて考えていなかっただろうか。「勉強なんて」しないで「本を読みたかった」「絵を描きたかった」「サッカーをしたかった」「音楽を聴きたかった」。
 やらなくてはいけない事に追われているときはユメが明確に浮き彫りになっている。本当の自分はその中にいるような気がしないだろうか。

 ところで、「ウンコ味のカレーとカレー味のウンコ」だったら私は「ウンコ味のカレー」を選択する。ウンコを食べるよりはカレーを食べたほうがからだにもいいし、ウンコを食べないでウンコの味を知る事が出来てお得だと思うし。


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